飲み会
先週は東京のPMBOKの研修で知り合った人と飲みに行ってきた。航空機の関連の会社勤めの人です。飲みには行ったのは初めてだったけど、楽しかった。
12月に入り、大阪と東京でいろんな人たちと食事したり、飲んだりしてきた。今回会った人たち、みんな元気だったと思います。元気な人には、何と言えない良いオーラが出ているように感じました。そういう人たちの食事やお酒は何ともいえない楽しさがあります。
そのオーラにひきつけられ、人が集まる。景気は良くないかもしれないけど、そんなオーラを持っている人たちと働くと仕事も楽しい。自分はそうはいかないけど、会社の人たちは、しかも多少のリスクをとって冒険も出来る。損出しても怒られるけど、許される部分もある。(それは羨ましいと思います。)
ビジネスの中での偶然と必然性の話も面白かった。私の仕事にしろベンチャービジネスにしろある瞬間で成功するかもしれない。それはたまたまラッキーで偶然でしかないかもしれない。偶然は2度3度と起こる確率は低い。でも俺は持っている男なんて思うとそこでダメになるかもしれない。人生良い時もあれば、悪いときもある。良い事が何度も続くことはなかなかない。(その逆もありで悪いことが何度も続くこともない)
偶然だったけど、それを必然性がもてるように考え、それをビジネスの場で実践していくことは重要。そして勝負するなら、必然性をもっている自分の土俵で勝負するようにする。
そして他人に感謝の気持ちを忘れない。やっぱり周りの人たちに助けられて、今の自分があり、心配をしてくれたり、一緒に喜んでもらえる人たちは誰でもいると思う。そういう人たちはいつも感謝し、人には笑顔で接していれば、自分も良いオーラをもてるかもしれない。そうすればもっと楽しく仕事して生活を送れるかもしれない。
だから、しかめつらより笑顔。不平不満よりも感謝。
悪いことあっても、これを上手く乗り切れば、自分もまたステップアップできるから、しんどいことも嫌やなあと思うのではなく、チャレンジと考え方変えればいいのかなそう思います。そうすれば悪いことも悪いことだけじゃないと思えてくる。
人間の感情はすごくて、プラスに考えるのと、マイナスに考えるだけで、同じものを見ていても全然違うように見える。すごく不思議だと思う。
こんなことを思ったり、話したりして、昨夜の飲み会を過ごしました。
何でも出来るのか?
あるところに載せたにっきを多少編集してみました。
11月14日東京に行った際、昔の同僚に10年ぶりくらいにあって、食事を一緒にしてきました。
元同僚は、アメリカの大学院で勉強し、その後京都のNGOに勤め、結婚を気に東京に移り
今は外資系の会社で働いています。
私もその京都のNGOが働くことになり、3ヶ月ほど重なっています。元同僚といろいろ話をしたが
ひとつ印象に残った言葉があります。
「アメリカでいたときは、現地にいた日本人は何でも出来ると思って、挑戦していたけど、日本に帰ってくるとあれもダメ、これもダメと出来ると思っていることが限られている。」
マレーシアの華人の友達と話する機会がありましたが、彼らと話していると何でも出来るかなとつい思ってしまいます。
当然、言っていることを実現するためには、苦労するとは思うけど、入り口に入るまでに
苦労するのか、入り口に入るのは簡単で中に入って苦労するのか?
マレーシアの華人やインド人もマイノリティーとして苦労があるだろうし、政府の話しても政治家や役人は
信頼はしていないように思えます。日本でマイノリティーない私にはわからない。いろいろ大変なことは
あるけど、彼らは前向きだなと思う。
公開講座フェスタ2011
寒くなってきました。慣れない私には結構この寒さ、堪えます。 (((=_=)))
ところで、夕べ大阪府が主催している公開講座に行ってきました。夕べのテーマは音楽のおける「バロック」http://www.pref.osaka.jp/bunka/news/festa2011.html
最近はほとんど聞かないクラシックやバロックのことを聞きたいなと思い、行ってきました。バッハのカンタータ(BWV105)を解説しながら演奏してくれました。音楽の中で感情を現す技法など聞き、なるほどと思った次第です。たまには、こういうのもいいのかなと思います。
1週間前には作家の西加奈子さんの講演もあり、こっちも興味深かったです。西さん自身は子供の頃、海外で育ち、大阪に戻ったこともあり、価値観の話をしていました。例えば、学校給食では、なぜみんな同じものを一斉に食べ、食べれないものがあることがダメなのとか女性は結婚すべきという価値観や意識を彼女自身も潜在的にもち、それらが打ち破れないと言ってました。小説を書いていると、一瞬だけそれが破れる瞬間があるとも言われていました。
自分自身にあてはめると、ここ10年ほどのほとんどが日本の国外で働き、東南アジア限定にせよ文化も宗教も違う国を転々としてきた。また、一般的なサラリーマンと働く形態もずいぶん違うので、価値観などもおそらくかなり違うと思う。1ヶ月前ほどに留学フェアーを手伝ったとき、相談にきたひとりとの会話が印象に残っている。その方は、みんなが知っている会社の社員だが、会社を辞めて留学したいと周りに相談すると、ほとんどの人はそんなk考えに否定的である。自分も相談を受けた内に入るかもしれないけど、留学する、しない両方にプラスとマイナス両面があると思う。総合的に考え、最後は自分で決断するしかない。留学して学位をとるという目標に対してマイナスのリスクを取り除くことで、留学で学位が取得できる少しでも可能性を高める必要がある。
もうひとつ印象に残ったのは西さんの小説に出てくる登場人物は大阪弁を話していますが、大阪弁あるいは関西弁は吉本のおかげもあり、認知度が高まったものの、実際にはのりではなしているので、聞き手が関西人以外はよくわからないまま聞き流していると聴きました。確かに細かいニュアンスわからなくても、その場ではわかった気分になっていることがおおいというのも印象に残った点。
この特別講演は聞き手と西さんが会話しながら、西さんがいろんな話をしていましたが、聞き手の能力でどのようなことを引き出せるのか変わるのだろうなと思いました。参考になりました。
帰国直前 [インドネシア]
5月の中旬にミクシィーに書いた日記です。契約終了2週間ほど前のことです。
あと2週間ほどで帰国。
先月の終わりから、報告書を作り始め、2週間ほど前から
会社に残しておく経理書類や物品などのチェックをしている。
今週は東京からミッションが来ているので、少し対応が
あるけれど、当初の計画から大幅に変更になったのは
助かりました。だいぶ楽している。
次の仕事は、どうしようか考えていて、もう1回楽しく仕事ができるかな
リベンジと思い、ジャカルタのポストを受けたけどダメでした。
どうしようか考えています。でも今と同じポジションの
仕事は止めようかなと本当思っている。
2年後3年後立ち上がるに案件がほとんどないと思われるし、
このままやっていても、この仕事に持続性がないと思う。
だから、結果的には良かったかもとおもうこと思っている。
ジャカルタにやってきたのは3年前、当時はインドネシア語は何もできなかったけど
いまでは電話で受け答えしたり、インドネシア人の職員には半分以上
インドネシア語で会話している自分。もう2年か3年いればもっとインドネシア語
できるように勉強したと思うけど。
少ないながらも仕事と関係直接あったりなかったりするけど、インドネシア人の友人も
できたし、友人たちともこれからはなかなか会えません。(ジャカルタでも
そんなに出合う頻度は高くないのですか)
日本では厳しいこともいっぱいあると思うけど、まあ良い事もあるとおもう。
Open University Malaysiaの勉強が少し残っている。修論を書けます。
できれば、間をおかずにPhDのコースを取ろうと思うおっさんでした。
今の気持の持ちようと対して変わりはないようにも思えます。でもやっぱり違うように思います。
幸せは自分の心が決める
相田みつをの言葉です。
留学フェアー [教育]
これもミクシィーの日記そのままコピペします。2011年10月4日の日記。
ブリティッシュカウンシル大阪は撤収して、今は東京に機能集中させているようです。友人のブリティッシュカウンシルのスタッフも言っていましたが、、留学を希望する人が少なくなっているのも事実らしいです。一方で、ブリティッシュカウンシルも英国の大学からは、フェアに何人の希望者がやってきて、何人の人が実際に留学したのか評価されるそうです。世界のトレンドから見れば、イギリスだけではありませんが、中国人や韓国人の留学生が増え、日本人には厳しい状況です。そのような中でブリティッシュカウンシル大阪と併設していた語学教室も撤退したことは本当に仕方ないかもしれないけど残念。
留学はリスクも大きいと思います。プレッシャーとかに押しつぶされている人もいたり、途中でドロップアウトしたり、いっぱい苦労があると思います。でも一方で自分の経験として、厳しい環境の中でがんばり、学位がとれたときの達成感は言葉にできません。 苦しいことに立ち向かい、克服すればこそ、成長ができるのではないそう思います。
経験者としての私の言葉は重いことを実感しました。しかし、私たちの世界が外の世界につながっている。 日本が海洋国家である以上、個人的にはやっぱり日本を出て、世界を舞台に新しいことに挑戦した方が良いと思います。
シンガポールの友人 [インドネシア]
今年の1月にミクシィーの日記の書いたのをそのまま貼り付けます。そのうちミクシィーとリンクさせます。
ラオスでの出張(北部) [ラオス]
ラオスの仕事は2008年3月28日に終了しました。その前の4ヶ月ほど前からラオス各県をまわり、セミナーを実施しました。最初は、ラオス北部の県。年が明けてラオス南部と続きました。今回は北部に出張したときの事書きます。

①ビエンチャン県②シェンクワン、 サムヌア、ルアンプラバン③ボケオ、ルアンナムタ ④サヤブリ、ウドムサイ、ポンサリーこのツアーを11月始めから年末にかけた行ないました。1回が5~6日程度。陸路の移動がひどいときは13時間ほどかかります。移動で一番しんどかったのは、②です。シェンクワンからサムヌアまで9時間。翌日セミナーして、翌々日ルアンプラバンまで13時間。途中休憩が多かったり、道路も未舗装区間が結構あり、ルアンプラバンに着いたらルアンプラバンが何と都会に見えたこと。 1週間置いて、③の出張を行いました。そして悲しかなクリスマスから12月30日にかけて④の出張しました。(結局年末年始の休みは1月1日のみ
)
大変なことは3つほどあります。1つ目は、移動。2つ目は食事、そして気候です。
北部は山ばっかりで、移動が本当に大変です。未舗装道路も結構あり、車に乗って揺られているだけで、結構疲れます。9時間10時間車に揺られるのも辛いです。
一緒に行くのは、日本人は自分だけ。他はラオス人。ごはんも同じものを食べます。自分だけ嫌とは言えないです。ラオスの主食はもち米です。うまいといえばうまいけど、毎回こればっかり、歯にくっついて、歯につめていた金属が次々にポッロととれました。(移動で疲れがたまっているので、歯の調子が良くなかった。 最終的に歯の治療ですごいお金を使う羽目になりました。)それにどこにいっても、同じような料理。味も同じ。(中にはこれは受け付けないというのもあります)。それに地方に行けばレストランがない。県庁所在地なのにレストランが数軒だけ。それでもたまに中華をたべれるときがあります。ラオス人にしたら、中華なんかもわかりませんが、ラオス料理ばっかり食べさせられ、4日ぶりくらいに(綺麗とはいえないレストランで)中華を食べたら、泣けるくらい
美味しかった。
3つ目の気候は寒さです。11月12月ラオスの北部は結構寒いです。ベトナムに接しているサムヌアも朝霧、雲南省に接しているポンサリなんかは10℃切って寒かったです。薄手の服しかもっていかなかったので、とにかく寒かった、ポンサリは、山の上の町で、面白いところところとおもうけど、ゲストハウスも数が少なく。お湯もほとんど出ない、テレビをつけても中国ものばっかりなんで、仕方なく中国のドラマをみていました。(もちろん何を言っているのかさっぱりわかりません。でもCCTVでやっていた西安事変というのは結構気に入っていました。)それにくらべるとサムヌア本当に何もなかったけど、ゲストハウスは意外に良かった。お湯はきちんと出ました。
(上の写真がポンサリのゲストハウスのシャワー兼トイレ※これでも1泊10ドル位します。2003年にもここに泊まりましたが、だいぶボロクなっていました。2番目の写真はサムヌアを早朝出発し、車の中からとりました。3番目はポンサリのUSA某プロジェクトサイト)



日本語補修校 (まとめ) [教育]
5年前には補修校のことを書きました。補修校の運営委員長を通常なら1年のところを引き継ぐ人がいなくて半年間延長し、1年半やりました。この間、今振り返っても、生々しくてう~んと思うことがありました。2回ほど大きな嵐がやってきて、大変でした。でも、運営委員長の職を降りるまでのことを書きとめます。(あくまでも自分の主観ですので、あしからず)
運営委員会自体が補修校に通う子供の親が運営しています。役員はすべてボランティアだけど、やることはかなりありました。5年前に書いていたのはペーパーワーク。補修校の校舎をVIS(ビエンチャン・インターナショナル・スクール)から借りていたので、VISに賃料を支払う必要がありました。これを日本政府が補助してくれます。補修校には先生がいますが、先生に給与を支払っています。この給与もやはり、政府からの補助があります。補助金をもらうためには、書類を作成し、現地の領事館に提出しないといけません。それと運営委員会の会議2ヶ月に1回くらいしました。会議の前には根回したりして、会議の時には実質的な会議は終わっているように心がけました。
また、補修校は日本人会からの財政的な支援をうけているので、収支報告書など作成し、日本人会に 報告する義務が生じます。予算の計上もしないといけないので、何人位子供が入ってきて、抜けるのか予測します。授業料は月XXドルと決まっているので、補助金等を入れると収入の積算はそれほどむずかしいことありません。支出も仕事でいつもやっていることなんでこういうのは私にはむずかしくないです。(役割分担があったんですが、最後は自分で何故か作っていました)
補修校の運営は週6時限の授業が確保できれば、結構柔軟なスケジュール組めます。一般的なのは週末の一日6時限をぶっ通して授業やってしまう方法。先生は有給の人もいたら、保護者だけで回している学校もあり、様々です。ビエンチャンの場合、火木土の週3回で2時間づつ合計週6時間 でやっていました。先生は3~4名で有給の先生でした。これはビエンチャンが小さい町で車で15分以内くらいの範囲の中で日本人がすんでいることも関係していたと思います。
上記の書類作成は大変なのですが、本当に大変なのは、人のマネージメント。人は感情の生き物。一度気分を悪くすると、その後の人間関係に大きくマイナスになります。職場の雰囲気も悪くなる。そうすると子供にも影響でます。狭い世界なので、ガス抜きも簡単ではありません。もちろんそうならないように、予防的措置はしないといけないけど、なってしまったときはどうするのか?対処療法。
私の場合は、もめている当事者と直接話しました。一人2~3時間くらい。(これって本当に疲れました。本職の仕事の後、関係者の言いたいことを聞いてあげないといけないからね。)それを自分の中でまとめ、最終的に判断しないといけなかったです。ここは自分を信じて、自分で判断しないといけない。でも下手すれば空中分解になるので、気をつけないといけないです。結論は、当然運営委員会保護者にで知らせる必要があるけど、その原因とかプロセスはどうか?個人的にはすべての情報を公開するとかえって良くないのではないかと思います。人は全部知らない方が幸せなときもある。私はそう思いました。
また、補修校に子供を送る保護者が学校に求めるニーズは、日本国内の学校に求められるニーズよりも多様な気がします。例えば両親ともに日本人。お母さんが現地の人もしくは外国人でお父さんが日本人。お母さんが日本人でお父さんが外国人の場合。保護者のバックグランドが違えば、学校に求めるものもまた違う。でも、たかがか20人ほどの子供しかいない補修校で全てのニーズを満たすことはコスト面から考えても難しい。だからどこかで線を引いて妥協するしかないです。しかも、ビエンチャンのように3~5年でほとんどの子供も入れ替わるのは、連続して学校運営していくのも本当に大変です。
現場の先生が気持ちよく働ける環境を実現してあげることが、保護者の満足度を高めることかなとおもいましたが、そこは良く考えると難しい問題です。まして先生の授業の進め方がおかしいといわれるときどうすればいいのか簡単ではないかと思います。子供も先生も守ってあげないといけないです。
今でも鮮明に覚えていますが、補修校の運営委員長の仕事を終えて、ある組織のトップの方と話をしたとき同じようなこと言っていました。トップは孤独で誰にも話せないこと。胸の奥にしまっておくこともあると。人には言えない。自分の中で抱え込まないといけないし、たえず、周りからのプレッシャーもあるし大変だなと思います。補修校はそれほどでもないと思います。
最後に、1年間一緒にやってくれたOさんには感謝します。いろいろ助けてもらいました。Oさんなしには自分は補修校の仕事できなかったと思います。
また、本当に委員長の仕事をボランティアでするのは結構辛かったけど、終わってしまえばよい経験だったのかなと思います。![]()
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ご無沙汰しています。
ラオスに出戻りしたのは2005年4月。
結局、2008年3月までラオス・ビエンチャンにいました。
そのあと、帰国し、2008年5月から2011年5月までインドネシア・ジャカルタにいました。
東南アジアの生活はトータル10年を超えたものの、今は大阪。
でも大阪でいるということは仕事をしていないのと同じ。早く仕事はしたい。
焦る気持ちもあるけど、9月位に入り、落ち着いてきた。心は穏やか。もちろん焦っている部分もある。
なぜ落ち着いてきたのか自分なりに分析すれば、辛い気持ちも長くは続かないのが
一番だと思う。それに今まで、もっとキツイ場面もあったし、それ乗り越えてきたから、
今度も何とかなるかと思う。いつになればよくなるかわからないけど、いつか来ます。
だから心は折れない。
ジャカルタを去る1週間前にいつものように通勤路のスディルマン通りを通った。
いつもの光景だけど、心の状態が少し感傷的になっていたので、いつもと違うように見えた。
ひとつの事実も心の状態で、それが違うように見える。だから自分がブスッとしているよりもニッコリしている
方が周りもそれを感じ、雰囲気良くなるし、それが自分にも返ってきてくるときもある。
(自分に返ってくるのか返ってこないのか大きな問題じゃないと思うけど。)
周囲には常に感謝の気持ちを忘れずにと思う。
昔自分が書いたブログを読んで、思い出したこともあった。6年近くの空白で
どこで挫折するかしらないけど、きばらず、ぼちぼち再開していこうと思う。








